弱い立場にある人を置き去りにしないために 安田 菜津紀

インタビュー:2016年10月14日

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

フォトジャーナリスト。東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、『HIVと共に生まれる-ウガンダのエイズ孤児たち-』で第8回名取洋之助写真賞受賞。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。

熊本地震の取材を始めた経緯

フォトジャーナリスト・安田 菜津紀さんが熊本地震の取材を始めて数か月が経過しました。東日本大震災を長く取材し続けてきた安田さんの目に熊本の現状はどう映っているのか、お話をうかがいました。

編集委員

熊本を取材することになった理由を教えてください。

安田

熊本には学生時代からのご縁があります。フォトジャーナリストとしての仕事を少しずつ始めていた頃、地元のNPOの方々や町おこしをしている方々に講演に呼んでいただきました。それからも海外取材から帰るたびに講演の機会をいただいて、年に1回か2回は必ずお邪魔しています。東日本大震災で家族が被災した後は、心身ともに疲れているのではないかと心配してくださって、「息抜きに熊本においで」と旅行に招いてくださったこともあります。そのときは、まさか熊本が災害に見舞われるとは思ってもいませんでした。

編集委員

取材はいつから始められたのですか。

安田

ちょうどイラクなどの海外取材が重なってしまって、熊本に入れたのは6月でした。その頃東京では熊本地震のニュースは減ってきていたように思いますが、最初に入った益城町は、昨日地震が起きたのかと思うような町の様子でした。建物は崩れたままで道路の整備もままならない。地元の方は「むしろ地震の直後よりもひどい。地震の直後はかろうじて建っていた建物が、集中豪雨などでどんどん崩れていく。自分たちが暮らしてきた場所が日を追うごとに傷んでいくのを見ているのはつらい」というお話をされていました。そういう様子を見て、これは長期的に取材する必要性があると感じました。

何度も足を運ぶことで見えてくるもの

編集委員

どのくらいの頻度で熊本を訪れているのですか。

安田

月に1回か2回くらいお邪魔しています。熊本で長くお世話になっている方から「熊本は観光で盛り上がっていたのに、観光客が激減してしまうと元気が奪われる。被害状況の情報は欠かせないけれど、熊本のいいところも同時に伝えてもらえないだろうか」という声をいただいていました。そういうこともあって、最初はお祭りを追いかけたり、農家さんのところにお邪魔したりしていました。

編集委員

いくつか写真をご紹介いただけますか。

安田

これは、『みずあかり』の写真ですね。竹で作った灯籠で熊本城周辺を飾る灯りの祭典です。例年と比べるとかなり規模を縮小していますが、10月8、9日に開催されました。

安田

こちらの写真は、川尻の精霊流しです。熊本市内にある川尻という地区は、酒造さんや和菓子屋さんなどの古めかしい建物が残っている地域で、400年以上の伝統がある行事だそうです。

編集委員

地震の被害が露わになった写真もありますね。

安田

この写真に写っているのは、熊本城の基礎の部分です。ちょうどこの上がお城になります。熊本城は重要文化財に指定されているため、石を1つずつ調査して元の場所に戻さないといけないんです。ですから、修復はおそらく4、5年で終わるような作業ではなくて、10年、20年かかるのではないかと言われています。

安田

こちらは南阿蘇の麓にある居酒屋さんです。食器などは片づけてありますが、床にはヒビが入ったままで、これがどのくらい強度に影響しているかという調査が終わらない限り、再建するのか補助金を申請するのかの判断がつかないとおっしゃっていました。

マスメディアの取材が落ち着くのを待って避難所へ

編集委員

避難所も取材されていますか。

安田

避難所を訪れたのは9月に入ってからです。というのは、東日本大震災のときは被災範囲が広かったのでメディアの取材もある程度分散していました。でも熊本の場合、狭い地域でこれだけの災害が起きたためにメディアの取材が集中してしまいました。そのことで避難者の方がかなり疲れているということは予想がついたので、すこし間をおいてからお邪魔しようと思ったのです。

編集委員

そのとき避難所はどんな状況でしたか。

安田

毎日寝泊まりしていない方も含めると、9月初めの時点で益城町の避難所に生活拠点を置いていらっしゃる方がまだ400人いらっしゃいました。地震から5か月たっているのにと、正直驚きました。体育館の外側は、いたるところでコンクリートが隆起していて、最初は車いすの方やご高齢の方が出入りするのにとても苦労されたそうです。

編集委員

9月時点でも、炊き出しが行われていたのですか。

安田

食事は基本的にどうしてもコンビニのお弁当となってしまいます。これだけの人数がいると、電子レンジで温めるわけにもいかないですから。ただ、毎日毎日お弁当が続くのは気持ち的にもつらいですし、脂っこい食事が続いて胃を壊してしまったご高齢の方もいます。でも、益城町としては人手が足りなくてどうにもできないんですね。それで、地元のお母さま方が自分たちでできることをやろうと寄付を募って、週に1回栄養たっぷりの野菜スープを作られていました。

編集委員

避難所内の様子を教えてください。

安田

体育館はプライバシーが守られるように布で仕切られています。写真を見ると上にも布が張ってあるのが分かると思うんですけれど、これには2つの意味合いがあります。1つは余震が続いていたので何かが落ちてこないように。もう1つはいろいろなものが剥がれ落ちている天井を見てあの日を思い出してしまわないように、という配慮です。布はボランティアさんたちが全部手縫いされたそうです。

弱い立場にある人がなかなか仮設住宅に移れない

編集委員

この写真も避難所の中ですか。

安田

そうです。こちらは作取さんご夫妻ですね。避難所には、体育館のアリーナとは別に視聴覚室のようなものがあります。作取さんはあえてそちらの仕切りのないお部屋で、数世帯で一緒に避難生活を送っています。仕切りがあるとたしかにプライバシーは守られるんですけれど、高齢者の方にしてみると自分たちの状況に気づかれない、あるいは周りの人の顔が見えなくてかえって不安ということもあるんですね。作取さんは、お兄さんご夫婦とお母さんも同じ避難所にいらっしゃるんですが、お母さんが98歳とご高齢なので、なんとか一緒の仮設住宅に入りたいと。でも別世帯なので、その希望がまったく通らないまま9月まで来てしまったということです。

安田

こちらの写真に写っているのは榮さんという方で、88歳のおじいちゃんです。奥様に先立たれてからお一人で暮らしていらっしゃいます。ご自宅は半壊しました。仮設住宅の1次募集のときは全壊の世帯しか申し込めなかったのですが、途中から仕組みが変わって半壊の方でも申し込みができるようになりました。でも、榮さんはご高齢のこともあって、その情報に気づかずにここまで来てしまいました。

安田

こちらは作本さん。19歳のときから車いす生活を続けていらっしゃいます。ご自宅は全壊してしまったのですが、介護用ベッドだけは何とかご自宅から持ち出せたそうです。作本さんは、本当はもっと早い時期に仮設住宅が当たっていたのですが、お風呂の前に段差があるとか、玄関までのスロープが狭くて車いすが回転できないなどの理由で、そこには移れませんでした。9月の初めに福祉仮設住宅を建てるための用地が決まったのですが、この時点ではまだ避難所生活を続けていらっしゃいました。作本さんは、この避難所で5か所目ということでした。新しい環境で生活をするのはエネルギーがいることなので、すこし疲れていらっしゃるように感じました。

東北の経験を活かしきれていない

編集委員

東北で長く取材を続けてきて、熊本の様子はどのように映りますか。

安田

本来はあってはいけないことなのですが、普段の生活から弱い立場にある方が追い込まれてしまっているという状況があります。こういう災害で誰の声が届きにくくなるかは、実は私たちは東日本大震災で学んだはずのことだったんです。もしかすると多少は活かされた面があるのかもしれないですけれど、その学びが十分には活かされていないという悔しさが私にはあります。今の熊本の状況を何とかしなければならないのですが、それとともに熊本のことをできるだけ忠実に記録して、次に活かせるヒントを少しでも多く残していくことが大事だと思っています。

編集委員

経験から本当に学ぶには、どんなことが必要なのでしょうか。

安田

私は、意識の角度を変えていくことだと考えています。東日本大震災が起きた後で、いろいろなところに講演に呼んでいただきました。皆さん、共感してくださったのですが、「この町には海がないから」ともおっしゃるんです。あの東日本大震災が起きたことによって、『自然災害=津波』という考えが私たちのどこかに定着してしまったように思います。でも、実際には地震も台風も集中豪雨もあります。今年はそういうことを痛感した年だったと思います。だから、防災訓練をしていてもこれまでとは意識が違ってきたということをおっしゃった方がいました。さまざまな自然災害を経て、情報の受け取り方がすこし変わってきたのではないかという気がしています。

文:岡野 幸治